昭和48年01月29日 夜の御理解
仏教の言葉に、成仏という言葉があります。成仏すると言う。親鸞聖人様は、南無阿弥陀仏と唱えれば、誰しもが成仏できると説かれた。成仏すると言うんじゃなくて、成仏することが出来るのである。ですから私は今、久富先生の話を頂いて、その事をふっと思ったんですけども、親先生が金光大神を現されるほどしの親先生なら、天地金乃神様のお働きを現す事が出来られる。そういう親先生であるなら、信者が親先生と言えば成仏が成仏するのではなくて、成仏できると言う事が言えると思う。
まぁそういうなら、私共が金光様のご信心を頂いて、金光様と唱えることを覚えておればですね。金光様と言う事を覚えておれば成仏ができる。それはまぁ特に仏教は所謂、後生の事を説く宗教ですから、死んだ先の成仏するしないという事が説かれてあるけれども。ほんなら金光大神の道は、この世で成仏するこの世で神になると言う。それがそのまま、あの世に持ち続けられるとこう言うのうである。
それで私共が金光様と唱えれば、成仏するというのではなくて、する事が出来るのである。そして金光様とおすがりしておる内に、教導して頂く筈です。だからいうなら極楽行き、極楽行きをする事が出来る道を頂くから、けどもその金光様を唱える者が、いつまでたっても自覚が出来ない。例えば屑の子の自覚とか、自分の心が神に向かうのを信心というのじゃと言う様な事が分からない。信心とは御利益を頂く事だと思いながら、金光様金光様をいつまで唱いよっても、それはいつか機会があるかも知れませんけどね。
私は最近朝の御祈念に思う事は、高芝さんという方はもう二十何年間、ここで総代を勤めておられるけれども。御理解というは頂かれないですね不思議に。それで最近は綾部さんが言うておられますが、最近のおっちゃまが変わりようは、本当に今ならなんも言うことはいらんと言うておられるぐらいに変わっていかれておるという事を、先日話しておられましたが。今は御理解を頂くと言う事が、無情の喜びのごとある。
もう一番前にきて最近では、とうとうテープレコーダを買ってね、そして自分だけではなく又家内にも、誰彼にもそれを聞かせたいと言った様な意欲に燃え立っておられる。ですから、金光様を唱えておれば、十年後二十年後、いつかはねそういうきっかけを下さるかも知れん。今の高芝さんの場合は、心が神に向こうておる姿だと思う。だから私成仏をする事がなるほど親鸞聖人が言われた、あのどんなに極悪人であろうが「南無阿弥陀仏」を言う事によって成仏する事が出来るのであって、成仏するのじゃない。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を唱える事を覚えたら、そこから教導を受ける事が出来る。仏になる道を教えて頂く事が出来るというのである。ですから私共が金光様ほんなら、今の久富先生の話で言うと、親先生というて皆が助かるというのは、親先生自身が確かに金光大神を現され、天地金乃神様を現せるだけの、いうなら親先生の信心が神に向こうておられる。信心とは神になる稽古だ、一歩一歩神に近づいていく事だと、いうなら自覚しておられる悟っておられる。
そういう先生ならば親先生というても、金光大神というても、南無阿弥陀仏というても同じ事になってくる。親先生と言やいつかは助けて頂く。自分はまだ心が神の方へ向かってはいない。けれども、親先生を唱える、例えば、金光大神を唱えられる事を覚えておく事によって、我情我欲の為の金光様であってもです。高芝さんの例を申しました。いつの間にかです。神様が本当の成仏の出来る、成仏する事のできれる、成仏する道を説いて下さる。いわゆる極楽にいけれる道を説いて下さる事が出来る。
今日は敬親会でしたが、今日初めて参ってきた、べん目かでしょうか。今日参って見えた方が話しておりました。もう私達の若い時の姑親に使える、使えるというとのはもうそれこそ、大変厳しいお母さんだった。それでまぁ朝は早う晩は、しゃっちどがしこ家夜なべをしなければ寝られじゃった。それはもう子供多しの、最中では、そうにゃ苦労した。今の若い嫁さん達は、本当楽なこっちゃあるという話をしとる。
そしてもう言う事は聞かん、家の嫁子達はち言うごたる風な、してみるとそのお婆さんはお母さんにも苦労し、嫁さんにも苦労しとると言う事になる。してみると真ん中におるとが、地獄におるとと同じこっである。だから信心というのはそういうのじゃない。わが心が神に向かうと言う事。その喧しいお婆さんのおかげで、自分の心が神様へこれだけ向かったとかね、又は嫁子のおかげで信心が出来ると言った様な生き方にならなければ、信心が、ここへ向いておるという事は言えんのです。私はそういう様な話を聞いておったからだろうか、今日新年宴会でしたから、お神酒を少し頂いてましたから、大体終わって少し早く御無礼して休ませて貰った。休んでおる時に頂いたお夢がね。もう何と言うでしょうかね雪の原です。真っ白い雪一色なんですね白一色。
そこに所謂まぁ幽霊ち言うでしょうかね、白い着物を着て髪をこうされて、手をこんなしたそれが三々五々、苦しい風じゃないけれども、こう浮遊しておる。あちらへ行ったりこちらへ行ったり。五六人、二三人ち言う風に、それが別に怖い感じでもなかなければ、苦しいという感じでもないけれども、迷うておるという様な感じなんです。それが下が白一色である所に、なんかね一服のまぁ宗教画を見るような感じの絵でしたそれは。もう広々とした雪の野原にね、幽霊が三々五々まぁ散歩をしておるという感じじゃないけれども、結局私が感じたのは迷うておるという感じなんです。
ですから信心が金光様を唱える事も知なければ、南無阿弥陀仏を唱える事も知らない人達の場合は、こういう迷うた姿にならなきゃならんなと言う事です。親鸞聖人が例えば南無阿弥陀仏を本当に唱える気になれば、悪人でも助かる事が出来る。なるほどそれは合点がいきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を迷うておる内に、その南無阿弥陀仏を唱えればです、必ず極楽にいけれる道を説いて下さる。
金光様、金光大神を唱える事を覚えておればです。いつかの機会には、必ずわが心は神に向こうの信心というのじゃという事をです、教えてくださる事が出来る。今日はね敬親会から後の、休ませて頂いたお夢から、成仏という事について色々考えた。ははぁ私は可笑しいなぁ親鸞聖人様ほどしの方が、どげな悪人でん南無阿弥陀仏さえすりゃ助かるとこう仰ったが、助かる事が出来るというのである。助かるとじゃない。
ほんならそれを私が、お道の信心で言うならば、金光様と唱える事が出来るなら、必ず助かる事が出来るいつかは。それは高芝さんの例でこう申しましたよね。それは金光様ちゃもう御利益を頂く、おかげを頂くためだけに金光様しか唱えない人であってもです。いつかは、何かの機会に、高芝さんじゃないけれども、この寒修行を境にです、御理解を頂かれるという事に、本気で身を入れられた感じ。そしていうならわが心は神に向こうて行くと言う事が信心だと言う様に、分かってこられた時にです。
是は綾部さんが言われるのに、今のおっちゃまには、なぁにも言う事がなかと言われる。そしたらこの頃は、とてもやっぱ商売がずうっと繁盛するち。おっちゃまがあぁして、朝参りば本気でするようになって、御理解ば本気で頂くようになったらです、その繁盛の仕方が違うち言うてから、高芝さんも毎朝昨夜もおかげを頂いてというお届けをされますが、綾部さんがそう言うておられます。
ですから金光様のご信心は、金光様を唱える親先生を唱える。けども親先生が我情我欲の親先生ならいかん訳です。もう我情我欲に引っ込まれるばい。ですからいかに親先生そのものが、家の親先生ばっかりは、神様へ向かう事が信心、もう向きを変えてしまっておられる方だと信じられなければ、親先生じゃ助からん。だからこれはもう金光大神がいいわけなんです。金光大神なら絶対なもの。
ですから金光大神を唱えるという事を覚えておくだけです。この世ではとうとう助からなかったけれども、あの世で、いつかです、金光大神のお取次を頂いて、本当の信心を導いていただく事が出来ると言う事は言える訳です。私は沢山の亡くなった人達が、まぁいうなら幽霊が迷うて居る様にですね。沢山迷うておる。その人達がどのくらいおるやら分からん。南無阿弥陀仏によって助かる事も知らん。
金光大神助けてくれという心もないという人達は、本当に哀れだと思うですね。いつまでたっても救われる道がついてこない。成仏成仏する事が気出る成仏する。金光様の信心は成仏すると言う事を、この世で神様になるという事をです、体認させて貰い、おかげを頂いとかにゃならん。そこから有り難い、その有り難いものを持っていく。これならもう限りなくこの信心を、この世あの世を通して、神になる生き方一筋に進んで行く事が出来るという事が言えるですね。
どうぞ。